「『豊饒の海』または<陶酔の美学>」
以下、『豊饒の海』に関する要点の書き出し
1. 概観。
2. 作品の分析。
春の雪。大正初期。 ロマネスクな世界。悲恋物語だが、典型的な悲恋(『ロミオとジュリエット』など)と異なる特徴は、清顕と聡子を引き裂く外的な状況がないこと。ドラマのないところに無理やりドラマを創り出すのが三島の特徴であり、読者に目ざわりとなる。悲恋の根源は清顕の性格にある。貴族との婚約により悲恋が生じるが、貴族社会をふくむ社会への批判はどこにも見当たらない。外部の世界はほとんど描かれない。描写は、お涙ちょうだいの通俗演劇の舞台装置を思わせる。安っぽい金ぴか趣味が辟易させる。はたしてこの小説で何を描こうとしたのか。
後半になると密会のスリルが描かれる。無理に作った華麗な文体をのぞけば通俗小説の域を出ない。だがこの巻で三島以外書けないものがあるとすれば、主人公の陶酔感だろう。愛と死の陶酔は三島のテーマである。時代や社会は作者の関心外であり、時代や社会への批判を期待するのはどだい無理である。
奔馬。昭和七年。清顕の生まれ変わりだという飯沼勲が主人公。三島の理想像。資本家を殺して自殺することを理想としているが、その正義感はとってつけたものであり、陶酔を伴った死への願望が何より強いことに筆者は気がつく。死への陶酔感がアプリオリに勲の内部にある。夾雑物を取り除くと、同作者の「優国(原文ママ。以下「憂国」)」と同じ発想で描かれていることに気がつく。
「憂国」には将校の自決が描かれるが、「情勢に痛憤して」いることが説得的に描かれていない。陶酔的行為を合理化するためだけに教育勅語などが持ち出されている。三島の天皇観もその程度のものであって、本当の目的は死の陶酔を描くことである。
「奔馬」についても同様で、テロの理由は読者を納得させることができない。その民衆救済観は百科事典以上の価値を持つものではない。勲の出自は下層出身の若者にはほど遠く、白面の神経質な都会の青年を一歩も出ていない。最後の一行に行きつくとき、作者の描きたかったのはこの一行であったことがわかる。長々と観念的に描かれる社会的不正や民衆の悲惨は目くらましにすぎなかった。長大な四部作を企てさせたのは、作家としての生涯に壮麗な結末をつけたいという野心にすぎなかったのだろう。
「暁の寺」にいたって四部作は無残な失敗を露呈する。ほとんどプロットが消滅している。「天人五衰」にいたっては、四部作という形式を支えるための苦し紛れとしか思えない。暁の寺では、本多繁邦が主人公となっている。しかし最も注目すべきは、輪廻転生の主題があやふやになってしまっていることだ。
暁の寺は二部にわかれている。第一部は昭和十六年、第二部は昭和二十七年。第一部は主にタイが舞台。本多は三島の自画像であると考えてよい。三島はさまざまな作品で、自画像のヴァリエーションを描いてきたが、ほとんどが青年だった。だが本多は47歳。ここに自己の青春に対する三島の痛烈な批判がこめられている。第二部の本多の老いは、戦中戦後を老人のように生きた悔恨であると考えられる。
暁の寺の主題は本多の理性の解体と陶酔への目覚めである。「熱帯の風物」の描写は、単なる異国趣味でなく、本多の眼に死と陶酔の影を伴って映っている。陶酔は行為によって完遂される。だが本多は行動しない。本多は「見る」ことによって代理物を得ようとする。
ジン・ジャンには三つのホクロがない。第二部で日本を訪れるが、転生したという記憶を忘れてしまっている。注目すべきは、輪廻転生が中心の問題ではなくなっていることである。作者自身が一二巻のようには輪廻転生を信じなくなっている。本多はジン・ジャンを覗き見ることでホクロを確認するというより猥雑な陶酔感に耽る。それは戦後風俗の象徴のように描かれる。そしてある時ホクロを発見する。作者ははぐらかしているのか、それとも連続性の保障として採用された輪廻転生に固執するために付け加えたにすぎないのか。筆者の見解は後者だ。三島自身ここにいたって輪廻転生をまったく信じていない。第一部で本多は輪廻の思想を研究するが、知識に過ぎず、人格に何らの変更も加えず、戦後風俗に対する作者の観点に何らの影響もあたえていない。おそらく輪廻転生という方法を三四巻ではうちきりたかったにちがいない。清顕と勲に比べ、ジン。ジャンは本多の視線の対象物であるにすぎず、性格は最後まで判然としない。三島が三四巻で試みたかったのは、戦後社会に対する呪詛の吐露であったといってよい。
第四巻「天人五衰」の安永透はホクロを持ってはいるが、ジン・ジャンの死亡年月日がわからないため、彼女の生まれ変わりであるのか確証できない。小説の内容からいって、ジン・ジャンの生まれ変わりである必要がほとんどない。透がホクロをもっていたために養子にむかえる動機で必要になってはくる。だが第四巻の最終章で、聡子は清顕の存在をさりげなく否定してしまう。小説の技巧という観点から見れば見事な幕切れというしかない。三四巻であやふやになりかけていた輪廻転生が完全に否定される。時間の欠如を暗示するこの結末は何を意味するのか。さまざまな解釈が可能だろうが、この四部作は最終巻のこれら数頁の場面によってかろうじて完璧な失敗から救われているように筆者には思える。
(中略)
この作品を客観的なテクストとして考察したとき、一巻と二巻はたしかに連続性と完成度を達成しているが、三巻と四巻は無残なほどの乱れを示している。一二巻は抑制された文体だが、三四巻はやたらと作者の肉声が不協和音のように表面化して読者を苛立たせる。また、作品の連続性を保障している作中人物の輪廻転生が一二巻では明確だが三四巻ではあやふやになっている。清顕と勲には対立的な性格といった点からいって連続性があるが、ジン・ジャンと安永透には断絶があり、三四巻の中心人物ではなくなっている。三四巻の中心人物は本多繁邦であって、これが清顕と勲の老いた姿であると考えれば納得がいくが、本多はすでに最初から作品に登場している。かつて三島は『鏡子の家』を書いて戦後という時代に迫ろうと試みたが、この作品は批評家から失敗作と断定された。それは登場人物たちがそれぞれ内面世界に孤立していて、交流が欠けており、長編小説特有の重厚な構造を欠いていたためである。一般的に三島の作中人物の性格はアプリオリの決定されていて、性格形成という発展はけして描かれない。宿命的な性格をあたえられた人物があらかじめ決定された目的へむかって操り人形のように動かされる。だから短編小説においては、ほとんどどんなものを書いてもある程度の成功を得ることができるが、長編小説においてはしばしば失敗している。つまり輪廻転生とは『鏡子の家』の失敗への反省から持ち出された連続性を支えるための装置であって、三島が仏教的な輪廻転生を信じていたわけではなかった。しかし結果としてこの方法は三島のなかで充分熟していなかった、あるいは三島という作家はこのような方法には不向きであった。輪廻転生とは人間が様々なすがたをとって再生するのだから、作者はかなりの数の性格を自由に操れなくてはならない。しかし筆者の見解では三島の過去の作品の人物の性格は大雑把に分類すればせいぜい二種類程度で尽きてしまう。『豊饒の海』では作者は三巻目で息切れしてしまった、というのが筆者の印象である。さらに言えば実生活で輪廻転生を信じていないような人間がただそれを作品の形式として利用しようとしても有効な装置にはならない。『金閣寺』の成功は、放火僧のなかに自分の影を読み込んでいたためであって、内的なものと外的なものとのバランスが見事にとれた作品であったし、『宴のあと』なども同じである。
(中略)
三島の疎外意識には社会性というものが決定的に欠けている。『豊饒の海』は明らかに一方では歴史と社会を描こうとした試みだが、その点ではまったく失敗している。この作品には彼の政治観や文化論の破綻がそっくり持ち込まれてしまっている。『豊饒の海』はグロテスクなほどの装飾にもかかわらず、三島の実生活での存在の構造があまりにも直接的にあらわれてしまっていて、文学としての普遍性を備えた表現には到達していないと断定せざるをえない。客観的なテクストとしては成立していない。
『豊饒の海』で着用しようとした仏教思想は、彼の幼児性にとって重く深遠でありすぎた。だが三島の名誉のために言っておかねばならないのは、この現代という冷めて老成した時代にあっては、幼児性のもつある種の熱狂と偏狭さはそれなりに何がしかの反措定的な価値(反時代性)をもつかもしれない。
第四巻の最後に、輪廻転生が月修寺門跡によって否定されるのをどう解釈すべきかという問題が残る。これは『豊饒の海』の大きな謎として残るだろう。謎を秘めていない作品はつまらない。筆者は、こういった結末で最後の作品をしめくくった作者にある種の絶望を見るが、これはある意味、全精神を傾倒して構築してきた小説世界に対する、作者自らによる否定であると考えられる。一種のどんでん返しの方法だが、これが何がしかの感動を生むのは、単なる小細工的な技巧ではないように思えるからだ。存在すると信じてきたものが否定され、結果として自分の存在すら虚構におもえてくる本多の動揺は、おそらく作者自身の生が虚構であったという苦汁にみちた実感の単なる反映をこえた何ものかをはからずも表現している。しかし作者が有効だと信じてきた方法に作者自身が破産宣告を宣言したのだという考え方も同時に成り立つ。そういう考え方が同時に成立するからこそ、四部作がかろうじて完璧な失敗から救われていると筆者は考えるが、いずれにしても、三島が過去の作品ではけして描きえなかった、ジードのいう「神の部分」があることは確かだ。失敗作『豊饒の海』にいくらかでも救いがあるとすればまさにこの点においてほかならない。